この世の果て

音大に通っている。毎日壁にぶち当たっている。虚無と戦っている。俺は何をするのか。俺は何をして生きてゆくのか。行き先の見えない狭いトンネルをくぐっているかのようだ。目の前は真っ暗で、目の前の道路は車が行き交い、お店の明かりが眩しい。排気ガスの臭いがする。ただ一つの温もりのために生きているのか。

 

エーリッヒ・フロムは言った。「19世紀においては神が死んだことが問題だったが、20世紀は人間が死んだことが問題なのだ」と。では21世紀は何が死んでいるのか。何もかも死んでいるのか。街は騒音に溢れ、人に溢れ、物に溢れ、排気ガスに溢れている。人は、毎日の仕事や学校に追われ、時間に追われ、ロボットになっている。余裕はまるでない。一人暮らしをする。薄い壁からは、隣の人の音がする。毎日生活音が聞こえるが、話したことのない他人だ。1人暮らしは孤独だ。人ゴミの中にいる時も孤独だ。今気がついたが、人ゴミという言葉。人が多すぎて、ゴミのようなのか。一人一人には価値がないのか。恐ろしい言葉だ。それが今の日本なのか。私が暮らしているところも、そんな殺伐としている所だ。私でさえ、その環境に押しつぶされそうなのに、子育てをしている人を見ると、よく生きているなと思う。周りはほぼ知らない人で、非人間的な、住宅街。小さい公園に子ども達が大勢遊んでいる。40代で鬱になっている人のニュースを見た。大人が鬱になるような社会でいいのだろうか。そんな大人を見て、子ども達は希望を持って生きて行けるのだろうか。生命の塊だった子ども達も、いずれ鬱になってしまう社会なのか。そんな社会はおかしいと思う。誰しもが、自分の生命を思う存分、生かして生きて行ける社会にならなければならないと思う。一人ひとりが、人間らしく、豊かに、生きて行くことのできる社会ではなければならないと思う。

 

評価にさらされている。比較されている。どこどこに住んでいるからすごいとか、この学校に行っているからすごいとか、この車を持っているからすごいとか、SNSでバズっているからすごいとか、そんな世の中である。そんな世の中はクソだ。宇野千代さんの本に書いてあった。人生には比較があるかもしれないが、生命には区別はない。そうだ。みんな同じなんだ。みんな同じ生命、命なのだ。

 

無条件に生きて行きたいと思う。生と死が、普遍なものだとしたら、人間も、花と一緒だ。そのうちなくなるんだよ。だとしたら、スキップするような軽々とした気持ちで日々を生きて行きたいものである。そのうち無くなる。人間も、風と同じであり、鳥と同じ、雲と同じ、この一瞬の時と同じなんだ。その時を少しでも豊かに生きて行きたいと思うばかりだ。全ての人が、その、時を豊かに生きてゆくことができますように。

 

ハワイに行った。あまり人のいない島に滞在していた。何だか、故郷に帰ったようだった。一緒にハワイに行った仲間たちと話をした。全振り、ということがテーマだった。何かを成すには、全振りしなくてはならないと。人生の全てを捧げこまなくては物事は成せないと。それからずっと全振りについて考えていた。そして今、私は豊かになることに全振りしたいと思った。この一瞬を限りなく豊かに生きてゆくことに全振りしたいと思った。それは、ピアノを弾くことかもしれないし、またはピアノを聴くことかもしれない。いろいろな音楽を聴くこと、本を読むこと、お風呂に入ること、お香を焚くこと、コーヒーを飲むこと、寝ること、散歩すること、目の前の人と談笑することかもしれない。この生命を、無条件に爆発させて、そのままに生きてゆくこと。そういう日々を送ってゆきたいと思う。ただ存在する、無垢な心で、生きてゆきたいと思う。

 

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ありがとう。大丈夫だからね。ずっと忘れないよ。この思いよ、永遠に。