近代化、工業化と共に、心が失われていっている世の中である。大事なことは、日々の生活だと思う。1日1日の積み重ねが人生だとしたら、その1日、今日という1日は、「人生」である。
僕にとって大切な人が、亡くなった。ずっと生きていると思っていた人が、急にいなくなるなんて、なんか夢見心地だ。その人が生きている時は、言い合いになることが多く、腹が立つこともあったが、いなくなると、もうその人の声を聞くことはないと思うと、計り知れないほど悲しい。失って気づくものである。絶対感を持って生きねばと思っているが、いざそういう場面に出くわすと、寂しさと悲しさと、これは夢なのかと、感情がぐちゃぐちゃになる。でも、残された者は、色々な感情があるけれど、その人に恥じぬよう、生きなければならない。
この世の中は、何者であるかを大事にしている。大学生とか、会社員とか、なんとか役者とか、そういう肩書きがないと生きれない社会になっている。だからこそ、生きづらいのではないか。遥か昔は、そのような肩書きは無かったはずだ。本来、命あるもの、皆、無条件な存在である。いつから、そんな型にはまってしまったのだろう。私は、何者でもない、無条件な存在として生きていきたいと思う。
大切な人が亡くなった時、その顔は仏のようであった。それは、あらゆる煩悩や苦悩から、解き放たれ、完全に無というか、空であった。私はそこに本当の世界を見た。その人の人生には、色々な悩みや、心配事、苦しみ、痛みがあったと思うけれど、最後の最後は全てが空になり、無になり、仏になっていった。故人の生き様が現れていた。その姿は、ずっと私の心にあり続けるだろう。
カオスと静観に生きる。生きていることはカオスであり、また、とてつもなく尊いものである。世の中は諸行無常だけれど、ずっと変わらないものがあると思う。その大事なものを大切にしたい。磨きたての真珠のような心、ちり一点の雲りのない清い心に生きる。
これから世の中はどうなっていくのかは、わからないけれど、私はそのような、あたたかな心で生きていきたいと思う。もっとシンプルに、大切なものだけをギュっと握りしめて生きていきたいと思う。
一人一人はちっぽけな存在であるが、一人一人は宇宙的な存在である。
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